はじまりは、常連客に出した隠しメニュー
昭和38年、一人の男が北九州小倉から名古屋にやって来た。大坪健庫、昭和4年生まれ九州男児である。
この男の手によって「手羽先」物語が始まる。翌39年、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が東京・大阪間を3時間で結び、日本列島が大きく一歩を踏み出した頃である。
「風来坊」の一歩もこの時始まった。大坪はかつて、北九州市門司で妻・淑子と2人で小さな店を営んでいた。
10人も座れば満席というほどの店である。ここで客に請われるまま、メニューにない鶏の唐揚げを出したところ大いに喜ばれた。
その時、彼の脳裏にひらめくものがあった。
唐揚げにタレをつける――ただそれだけのことだが、この発想が後に、爆発的な人気を呼ぶ 「手羽先の唐揚げ」を生むことになる。
唐揚げに独特の香味を醸す絶妙のブレンダー。その“タレ”を、どうやって創り上げるか、それが大坪のテーマとなった。
彼は、仕事の合間をぬうようにして、広島、大阪へと、味を求めて各地に足を伸ばした。「どうしたら、旨いタレができるか」―
納得できる味を求めてどこへでも行き、研究を重ねていった。
それは、「ターザン焼き」として実を結んだ。
若鶏の半身をそのまま揚げて焼くダイナミックな料理で、それに熟成して生み出した秘伝のタレをつけ、各種の調味料で味をととのえる。
大坪の求める味が、ここで一つの完成を見た。この時点ではまだ、手羽先との出会いはないものの、その未来が誕生したといっていい。
鶏料理の本場といわれる九州で磨いたこのタレを身につけ、名古屋にやってきた大坪は、熱田区比々野に記念すべき第1号店を開いた。
この店で空前のヒット商品となる「手羽先の唐揚げ」が生まれ、後に各地へと展開してゆく「風来坊」のファミリーチェーンを担う、
彼の愛弟子が育つことになる。
手羽先を主役に。
ふとしたひらめきから生まれた人気料理
ある日、いつものように仕入れ先へ出掛けた大坪は、ターザン焼の丸鶏の注文が入っていないことを知らされる。
発注ミスだ!このままでは今日店を開けることが出来ないと頭をかかえた。
ふっと目をやると、そこに山のように積まれている「手羽先」をみた。いつも見る「手羽先」が、なぜかこの日は、違ったものに見えた。
手羽先といえば、スープの材料程度にしか使われていなかった時代のことである。
この頃、店では前述の「ターザン焼き」を主力メニューに鶏料理全般を出していた。「この手羽先に、あのタレをつけたらどうか」。
決断すると早い。さっそく彼は、手羽先をメニューに加えた。自信はあった。
予想通り売れた。というより、予想を上回って売れたというべきか。
半身ごと丸揚げというターザン焼きのボリュームには手がでなかった客も、この手羽先の軽くて美味しく、しかも安いという三拍子揃った魅力に一発でまいった。またたくまに、売れ行きナンバーワンのメニューとなった。
納得できる味だけを伝えたい。
暖簾に込められた元祖としての誇り
愛弟子は、彼の味を学んだ。客が増える。店が増える。味を大切にする大坪は、いわゆるフランチャイズ方式をかたくなまでに拒む。
彼のもとで修行し、彼が認める味のレベルに達した時、暖簾が分けられる。大坪は風来坊が多店鋪化する中で、味の暖簾を守ることに最も力を注ぎ、その味を身につける弟子をファミリーのように大切に育てた。風来坊を支える味の秘訣がここにある。
素材はそれを大切に使いこなしてくれる人を得てはじめて、その魅力が本来の輝きを放つことを、彼は長年の経験で痛いほどに知っているからである。
いま風来坊で、「手羽先の出ないテーブルはない」といわれるまでになった。
タレを創りあげるまでの長かった道程、創業時代の苦しかった毎日、それを支えてくれた温かい人々の励まし……。
オープン以来、走馬灯のように過ぎ去った今日までを振り返り、大坪はしみじみと、こう語る。
「安くて、美味くて、感じがよい」店を!―と。